寺報

毎月送られてくる お寺からの寺報なんですが

私もそんな歳になったんですね

興味深く読めるようになりました

偉い方と言われる方々は 本当に良く頭の中を巡らせて考えられていたのでしょうね

ご興味のある方はどうぞ


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私達は往々にして 、「学ぶ」とは、先生が有している知識や技術を、授業料を払う対価として生徒が手に入れるという「取引」のようなものだと考えがちです。

「取引」では、受け手は自分がこれから何を手にするかをあらかじめ知っています。

コンビニのレジで100円を払ったのに対して、店員が何を渡してくるかわからないということはありえません。

しかし、「学び」というのは、事前どころか、手にしてもなお、それが何なのかがわからないものを受け取ることなのです。

価値がわからないものを渡された時に人はどうするでしょう。

価値がわからないので自分には不要と考えるか、価値がわからない自分を未熟と考え、とりあえず受け取ってみるか。

「尊敬できる先生がいなくなった」と嘆いている人は前者に重なる気がします。

「取引」と「学び」の違いは、人と人とが関係する上でも同様でしょう。

人と会話をさることを私達は、AさんからBさんに情報を移動させることと単純に考えがちです。

でも、自分が話をしていた相手から「分かった 分かった」と返されると、不快になりませんか?

それは、「分かった」というのが、「もうこれ以上話さなくていい」という断絶の意思表示になる事もあるからです。

つまり私達が人と相対するとは、「わからない」状態を喜びとして重ねていく作業と言えそうです。

私達がコミニュケーションを先へ進めることが出来るのは、そこに「誤解の幅」と「訂正への道」が残されているからなのです。

そして

蓮如上人はこう教えられました


四、五人の衆 寄り合相談せよ。

かならず五人は五人ながら意功にきくものなるあひだ、よくよく談合すべき


間違えてはいけないよ

ではなく

間違うものだから話し合おう

とおっしゃってます